【2020.01.05】『死とは何か』・・・感じたこと。
〜今回のひとこと〜
「なぜ」という言葉は、物事の本質を知るためのキーワード…。
こんにちは YASUです。
今回の内容はタイトルの通り、『死とは何か』
後半では『人間は何のために生きているのか』について書いています。
報告:今回の内容は誰のためでもなく、自分の頭の中で感じたことをただただ形(文字)に残しておきたいためだけに書き記した文章になっています。
内容も、自分の中で感じたことを書いてるだけであり、個人の感想のようなものなので、集客・収益を意識して書いておらず、「no index」の設定をしています。
読みづらさや意味がわからないことも多々あると思います。
記事を読む場合は、承知の上でお読みください。
ということで、本題に入ります。
一人の人間が感じたこと。
死とは何か・・・。
僕の答えは「死とは現実であり、今起こっていること」
以下の順番にまとめています。
- 現実と感じてる世界こそが死の世界
- 帰るべき場所
- 死に直面する時に感じるメッセージ
現実と感じてる世界こそが死の世界
なぜ今が生きてて、心臓が機能しなくなった時に死とするのか。
当たり前のような思い込みに、「なぜ」という疑問を抱くようなりました。
そんな時に感じたことが「死とは現実であり、今起こっている」ことではないのか?
要するに、「地球そのものが死の世界」
一般的には地球上が現実で「生」と感じてる。
喜怒哀楽があり、痛みも感じ、五感がある。。。ために生とする。
これが「リアル」な死の世界だと個人的に思い始めました。
では仮に地球上のものが全て死の世界とすれば、死後はどこに行ってしまうのか…。
それが下記です。
帰るべき場所
死後の世界というのが以下です。
「本来、帰るべき場所」
先ほども話したように、個人的には死の世界が今であり、死後の世界というのが上記の言葉になります。
こっちの世界で言う「魂」だけが帰り、肉体は持って帰れないと言う感じ。
※ 肉体は着ぐるみのようなもの。
では何のために死の世界にいるのか?
それが記事の後半につながってきます。
死に直面する時に感じるメッセージ
これまでの話からすると、死に直面という言葉はおかしな話ですよね。
そもそも今いる世界が死の世界と考えているのに、死に直面するというのはつじつまが合わない。
なので、ここでは一般的な生死で考えて話します。
僕は過去に2度死に直面しました。
・自殺を図ろうとした
・過労死寸前
プロフィールにも多分書いてますが、上記を体験。
そして、死に直面した時に、感じたことがあります。
少し深掘りします。
結論、まだ帰るべき場所に帰ってくるなということ…。
自殺を図ろうとした
内容は、サッカー選手としてプロになれなかったこと。
完全に諦めたのは当時21歳。
21年間をすべてここに時間を費やし、勉強もろくにやってこなかったので、サッカーを失ってからは完全に頭の中が真っ白になり、先の未来が見えなくなっていました。
10年以上経った今でもはっきり覚えています。
人生で最も精神が崩壊した時だと思います。
そんな時に、サッカーのない人生は僕にはないと思い、自殺を試みようとしました。
刃物を喉に突き付けた時に感じたことです。
- 自分の葬式をしている光景
- 母親が泣き狂い自殺を図ろうとする光景
- それを兄弟が必死で抑えている光景
上記の光景が頭の中に入ってきたのをきっかけで、我に返り生き留まりました。
なぜこのような光景が見えたのか。見えたというより、想像したというのが正しいのかもしれません。
これが生かされた1つ目のメッセージ。
過労死寸前
サッカー選手の夢を失ったことで、とにかく自分のやりたいことを探すためになんでも死ぬ気で働きました。
「過去に一度自分は死んだ!思い立ったことはやれ!」
上記をいつも心がけ、直感したものはとにかくやってました。
直感は自分の思考とは別のものであり、自分へのメッセージ。
、、、だと思い、思考よりも直感を信じ行動するようにしていました。
直感を信じて行動するようになったのは、自殺を図りかけた時に感じたことがきっかけです。
当時は、毎日1日17〜18時間ほど労働し、電車の移動時間を含めると、睡眠は2〜3時間前後。
1ヶ月の休みはなし。
唯一の休みは、一つの仕事がない時だけ。
※ 2つの仕事を掛け持ちだったため。
朝昼晩と、休みをほとんどとっていません。
休みがある時は、社長に電話をしてでも仕事を入れてもらうように頼んでました。
そんなある日、深夜に働いていた時のこと、、、
あまりの眠気からなのか、脳の血管がピキピキと切れるような感覚を感じるようになってきた。
職場の人からも、、
「唇が紫色で顔色も悪いけど、大丈夫?」
、、、と言われ心配されるようにもなってきていました。
そんな時、いつものように朝から仕事に行こうとした時です。
以下のような出来事がありました。
- ふと玄関の鏡を見る
- 自分の顔色、唇の色の変化にやっと気づく
- この生活を続けると死ぬという感覚
働くことだけに意識が行きすぎて、上記に気づくことができていませんでした。
その時に感じた事は、自殺を図ろうとした時と似てる。
という思考が働きました。
この時から思うようになったのは、これは全部ご先祖様や死んだじいちゃんから、我に返らせ、気づかせる為のメッセージなんじゃないかと。
「まだ、こっちにくるな…」
と言われているようにも感じました。
もちろん直感を信じてたので、意味があると思いすぐに1つの仕事を辞めました。
寝る時間も増え、休みの日にはずっと読書する時間も増えました。
おかげで、今こうして記事を書くこともできています。
より、自分の行動、自分と向き合うことができるようにもなってきました。
これが僕が死に直面した時に感じてきた二つ目のメッセージ。
たぶん、こっちの世界でまだやり残すことがあるようです。
人間は何のために生きているのか・・・。
ここでも一般的に使われてる生死の理論上で話します。
個人的には何のために生きているのかというより、すでに今が死の世界
誰しもが一度は考えたことがあるワードだと思います。
答えはシンプルで「魂の成長」
ちょっとスピリチュアルな話かもしれません。
この「成長」について僕が思う以下2つの内容を深掘りします。
- 成長値というものが最大値に達した時に人は死ぬ
- 肉体は変わっても魂は同じ
成長値というものが最大値に達した時に人は死ぬ
個人の勝手な私感です。
一人一人に与えられている成長の値が最大値に達した時に人は死ぬと思っています。
人の死はそれぞれ異なり、若いのに早く死ぬ人がいれば長生きする人もいます。
一般的には寿命というものがあり、ゆっくり時間をかけて成長していくものだと思っています。
とはいえ、予想以上に早く死ぬ人は、魂の成長がものすごく早い人だと。
人が死ぬのは、どこでどのタイミングかなんてのはわかりません。
ただ一つ言えることは、、、
まだ自分がこの世に存在し、これを読んでるあなたもまだ成長過程にあるということです。
肉体は変わっても魂は同じ
上記でも話したように、魂の成長だとすれば、肉体だけが常に変わり続けてます。
たぶんですが、人一人に対する成長はだいたい100年程度。
それが寿命というもので、人一人が耐えられる体の限界。
一人の人間が何百年も生きたら逆に成長しなくなるということも考えられます。
なので、一人の人間が耐えられる体は、100年前後と設定されているのかもしれません。
始まりがあれば、いつかは終わりが来る。
終わりがなければ、日々をだらだら過ごし成長はしなくなる。
終わりがあるからこそ、人は考え日々の生活に感謝もできるようになると思います。
人生100年時代、されどたった100年以内で人はこの世を去る
現実問題として、人はたったの100年くらいでこの世を去ります。
僕も当記事を読んでるあなたも、100年どころか長くても残り数十年程度。
そんなもんですよ。
だからこそ、日々の生活を当たり前と思わず、数十年以内にはこの生活にも終わりが来る。
、、と自分の終わりをイメージし、現状の当たり前に感謝を忘れず、、
最後は「あぁ〜楽しかったよ。ありがとう」
と言って、本来帰るべき場所に帰ればいいかなと、僕は思い、日々を過ごしてます。
90%くらいは人生の最後に後悔をするみたいです…。
もっと書きたいこともありますが、思考の整理ができていないので、今回はこの辺で終わりにします。
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